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きものの歴史
きものの歴史
魏志倭人伝(三世紀の中国の歴史書)によると、男性は巻布衣(かんぷい)という一枚の布を体に巻き付ける服、女性は貫頭衣(かんとうい)という袖なしを着ていたとされています。 七世紀には仏教が伝わります。高松塚古墳に見られるように女性の衣服は膝下までと長く袖幅もゆったりしています。肩にはスカーフのようなものをかけていました。男性は冠(かんむり)をかぶり詰め衿の長い袍(ほう)に袴を履いていました。 養老3(719)年2月3日に元正天皇が「衣服令」を発令。衿は右を先に合わせる「右衽(うじん)着装法」となりました。 徐々に身幅、袖幅が広くなり、やがて男性の袍(ほう)や直衣(のうし)、狩衣(かりぎぬ)、女性の十二単(じゅうにひとえ)と呼ばれる唐衣裳(からぎぬも)や小袿(こうちぎ)、束帯といった絹織物の紋織衣装の有職装束が生まれます。 武家の台頭により、盤領(ルビ・あげくび)から垂領(ルビ・たりくび)の直垂(ルビ・ひれたれ)、素襖(ルビ・すおう)という行動的な衣服が公的なものになりました。武家女性も小袖の上に打掛を羽織って略式の礼装となり、貴族に仕えていた武家や庶民の日常着だった小袖が主流になります。 長い戦乱の時代が終わり、中国や西欧諸国からもたらされた文化や染織品の影響から意匠や色彩が大きく変化を遂げます。この時代から江戸時代まで男性も女性も、武士も町人もみな小袖を着るようになりました。 |