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花saku次号予告
 
きものの歴史

 

 

 

 

 

帯の歴史

 

 

帯は安土桃山時代の頃までは腰ひも程度で、ただ結ぶだけでした。江戸時代に若干太くなりはじめ、現在のような帯になりはじめたのは江戸時代の中期だといわ れています。きっかけは歌舞伎の流行により、女性らしさを強調するため、太い帯で華やかな結び方が生まれたといわれています。

 

1.室町時代から江戸時代初期

当初の帯は、内衣の紐が表面に表れたという程度のもので、表着である小袖も対丈(ついたけ)で身幅の広い仕立てで、幅も狭く、長さも短いものでした。また結び目も一定でなく、地質も表着の余裂(あまりぎれ)を利用し、平ぐけにするというのが普通だったようです。しかし、桃山時代から江戸時代初期には、平ぐけ帯の他に、名古屋帯(なごやおび)と呼ばれる組紐の帯も用いられました。

2. 江戸時代(初期~寛永・延宝時代)

江戸時代になって、小袖の形態は現在のきものにほぼ近くなりましたが、寛文前頃までは依然として一般の女帯は二寸ないし二寸五分幅で、六尺五寸ぐらいの長さであったようです。
結び方は突込帯(つっこみおび)といって、帯の端を巻きつけた帯の間にはさみ込んだ簡単なものか、花結びぐらいでした。しかし、寛永頃から、遊女たちはすでに五寸ほどの広幅の帯を用いていたようで、寛文、延宝の頃から、この広幅の帯は歌舞伎役者の上村吉弥(きちや)が、舞台に広幅帯を結んで出たことがきっかけとなって、広幅尺長の帯が広く用いられるようになったといわれます。結び方も、この吉弥のそれを真似て、帯の両端に鉛(しづ)を入れ、結び余りがだらりと垂れるようにしたのを吉弥結びと呼び、非常な流行をみたと伝えられています。

3.江戸時代(元禄時代~)

次第に幅広となっていった帯は、元禄時代には九寸近い幅となり、長さも八尺から一丈二尺でした。地質も繻子(しゅす)、綸子(りんず)、モール、ビロード、緞子(どんす)、朱珍(しゅちん)、唐織などの他友禅、刺繍、紋などもあった。結び方も吉弥結び、水木(みづき)結び、カルタ結び、はさみ結び、ひっかけ結び、御所(ごしょ)結びなどの種類がありました。
一丈二尺に九寸幅というのはほぼ享保以後帯の基準となり、結び方も更に種類が増して帯は女装美の中心をなすに至りました。現在も行われている文庫(ぶんこ)結びは宝暦、明和の頃に始まりました。
また、最も一般に普及している太古結びは、文化十年江戸亀戸天神の太鼓橋が再建された時、芸者衆がそれにちなんで結んだ帯の形といわれています。

また後帯が多くなったのも文化文政からであり、帯留(おびどめ)をするようになったのも、ほぼこの頃からで、結び方も二十種類以上もありました。
帯の名は、身に付ける意味の「佩ぶ(おぶ)」からきたといわれています。

帯の変遷については、それだけで学問になるくらい奥の深いものですが、現在のような形は、江戸末期から明治にかけて完成されました。江戸初期には、前後左右自由に結んでいましたが、次第に後結びが多くなり、ミスは後ろ結び、ミセスは前結びになります。

4.江戸後期

既婚の女性も後ろ結びになり、前結びは老女や未亡人の帯結びとなりました。今のように、帯締めを使い、後ろ結びに統一されたのは明治以降からです。帯の発達によって着物の装飾性は飛躍的に向上をします。紐やベルトのように、単に衣服を締める補助的な道具から、美観や礼儀を表現するものへ発展し、きものと同列の主役の地位を占めるに至りました。