きものの歴史
染めきものの歴史
三纈(さんけち)
多くの文化が中国から伝わりました。染めも同様で、模様染めの歴史は奈良時代にまでさかのぼることが出来ます。正倉院に遺る裂地に「三纈(さんけち)」という技法が存在していたことが確認できます。
「纈」という文字の付く三つの染織技法をまとめてこう呼びます。その三つとは以下のとおりです。
【夾纈(きょうけち)】
板締めによる絞りのことで、文様を彫った二枚の板がそれぞれ凹と凸になっていて、その間に布を挟み、板に空いた穴から染料を注ぎ入れて凹凸でしめられていない部分を染める技法。ぼんやりとした優しい境界線と、布を織ることによって出来る繰り返し柄が魅力。
【臈纈(ろうけち)】
蝋を熱で溶解し、それを布の上に置いて固まったところで染めると、蝋を置いた部分だけが染まらないという、いわゆる蝋を防染に使う技法で、現在の臈纈染、一珍染、虹染などへと発展している。
【纐纈(こうけち)】
いわゆる絞り染めのことで、布の一部を糸で縛ったり、縫ったりして防染する方法で、今も有松には千を超す絞り方が健在。鹿の子絞りは有名。奈良時代以降、模様染めは主に絞りの技法を中心に発展していきました。
今、染めの技法の代表といっても過言ではない「友禅染」が生まれるのはこれよりずっと後の、江戸時代に入ってからのことです。
友禅染(ゆうぜんぞめ)
江戸時代に入ると徳川幕府による天下太平の時代がやってきます。武家は戦がなくなり、庶民の暮らしも貧しいながら安定しはじめると、衣服も「おしゃれ」という概念が生まれ、華美を競う機運も高まります。
江戸中期ともなると、元禄文化とともに、ますます贅をこらした衣装が増えていきます。寛文八年には「衣服会」をはじめ、奢侈禁止令が幾度も発令されました。
そんな中、吉岡剣法とゆかりの吉岡染と呼ばれる色染め、描き絵模様染めの「茶屋染」「太夫染」「更紗」などさまざまな染色技法が生まれ、人気を博します。
中でも、京の扇絵師、宮崎友禅斎による「友禅染」は女性の心を捉え、一気に広まります。これが現在の京友禅の大きな礎であることは間違いありません。
◇ワンポイント
宮崎友禅斎(みやざきゆうぜんさい)
~扇絵師ならではの優れた感覚~
宮崎友禅斎(1650年~1736年)
江戸中期の扇絵師。出身は京都とも金沢ともいわれますが、真実はよく分かりません。後の時代に友禅染に携わる人が作り上げた架空の人物かもしれないという説まであるほど、その生涯は謎に包まれています。
宮崎友禅斎は、加賀藩の紺屋頭取であった太郎田屋茂平に染色技法を学んだ後、貞享・元禄年間に京都の知恩院門前に「洛東知恩院扶桑扇工友禅」という工房を構えたといわれています。
今も京都東山にある浄土宗総本山の知恩院の敷地内には、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して、昭和29年に改修造営された庭園があり「友禅苑」と名付けられています。
東山の湧き水を引き入れた池泉庭園と枯山水庭園とで構成された昭和の名庭で、園内には二つの茶室「華麓庵」と「白寿庵」があります。
友禅斎は、知恩院の門前に構えた工房で、それまでの模様染の技術を応用して、秀麗豪華で彩色豊かな新感覚のデザインを創出し、現在の友禅染の基礎を打ち立てました。
晩年は金沢に隠棲し、加賀友禅の技法確立にも尽力したといいます。
また、友禅染の人気が高まると、『友禅ひいなかた』『余情ひなかた』という絵柄集を出版したそうです。
これは、今の時代でいうといわゆる女性ファッション雑誌のようなもので、このことが、さらに人気を広げることになり、全国的に友禅染が広まっていったのです。
友禅の絵は、通人、粋人に大変好まれる“絵遊び”で、また絵の奥に意味が秘められているというセンスと、扇絵師らしい、非常に優れた構図を持っていたことがこのような大人気を博した要因だといわれています。